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ようやく、ウエブサイトを出すことができるようになりました。WordPressの教則本を何冊買ったことかわからないくらいです。何年前から取り組み始めたかも記憶が曖昧なくらいです。しかし、まだたったの2ページだけですが何とか「まちてくギャラリー」の概要が見えるようにはなったと思います。これから「過去の展示」や作ってきた小冊子のPDFなども閲覧ダウンロードできるようにしてゆきます。
現在の展示 2月3日〜4月30日 達川 清 展 次回は「伊藤 彰規 展」

文化芸術という社会資本

資本主義社会の終焉

この漫画を読んでからというもの、われわれ人間という生き物が高等生物だと思っていたかもしれない自分が、非常に情けなく思えて仕方がありませんでした。だけど、自分たちを卑下してみたところで未来が開かれるわけでもないので、ホモサピエンスとしての未来を考えないわけにはいきません。
壮大な未来図を描こうというわけではなく、単に自分の未来と希望を考えなくてはならないというわけです。
あの、アンゲラ・メルケルでさえ、「持続可能な発展」といっていたのですから、発展をやめて、なお、持続させるためにはどういう道があるのだろうと、考えてしまいます。
30万年前、地上には多くの種類の人類が生息していて、その中のひとつの種類のホモサピエンスだけが食物連鎖の頂点に立ってしまったのです。ネアンデルタールはサピエンスより体格も大きく、脳の大きさも大きく、器用に石器をつくっていたのに、サピエンスという単体では弱い人類にことごとく絶滅させられてしまったのだといいます。
人類だけではなく多くの大型動物すら、サピエンスが進出するのと同時に絶滅させられたのです。
そういう歴史を持つサピエンスの私たちは完全な子孫なのです。
体も小さく、脳もそれほど大きいわけでもないサピエンスに20万年前だかに、突然変異が起き、それは大きくもない脳の一部分の回路が切り替わって、想像をするようになったところから、サピエンス達は社会を作るようになったのだといいます。
普通の動物達のつくる群れというのは,50頭ぐらいの数が群れの上限で,それ以上に増えると分裂を余儀なくされてしまうのだそうです。
しかし脳の回路に変異をもたらされた,サピエンスは想像をするようになり,ないものをあるかのように,想像し,それを象徴として,群れの共有のシンボルとするようになったのです。
「ライオンがいる」というのは事実のできごとです。「ライオンは河にいるから森にはいない」と仮説を立てるようになり、「あいつはライオンをやっつけた」「あいつというヤツは見たこともないけれどライオンよりも強いらしい」「あいつについていけばライオンには襲われないらしい」とありもしないことを,想像し,想像を共有することで群れ全体の結束が強まる。その結果,群れは社会になり,社会はひとつの象徴のもとに,力が何倍にも結束するのです。その構造は現代も同じです。
核兵器という絶対に使うことができない爆弾を持つことで,強国になったと錯覚におちいり、それが錯覚だと知っていてもその力のシンボルを見せれば誰も無視ができなくなるという,強大な想像のシステムに捕らわれ続けているのだから情けありません。それでも全員がその錯覚を制度として認めてしまうと,無視ができなくなるという自縄自縛から抜け出せなくなります。
しかしホモサピエンスの時代からずっと,虚構の想像に頼り切って社会を構築してきて,社会など及びもつかない群れの連中は,ことごとく絶滅させられてしまったのです。
普通の動物ならば,異種間の争いでも,相手が引き下がればそれ以上追う事はありませんが,サピエンスは絶滅にまで追い込むのです。それは,「力」という、これも実態のようでいて,虚構そのものだと思うのですが,ないものをあるかのように象徴化することで,得る力の大きさから抜け出せない「想像という足かせ」によるものなのではないでしょうか。

資本主義の終焉ということからずいぶん逸脱してしまいましたが,現実というものもまた虚構なのです。
私たち人間の考えることというのは,象徴によって支えられて,欲望という象徴ををさらに増長させてきました。
欲望をてこにして,想像を膨らませ,さらに欲望を増長させて,考えるということまで,機会にやらせるような社会が現れて,みなが大慌てし始めています。
今ごろ慌てたところで,いったん火がついてしまった欲望をどうやって収めるのでしょうか。
男の欲望も女の欲も全部作られたもので、自然ではありません。自然には欲望などないはずです。ただ生きるだけで、その場所でいきられれば生き,生きることができなければ、生きられるところへ移動をするだけのシンプルです。
知識欲という欲望もまた,歯止めの掛けようもありません。
こうしてみてくると,人間の欲望がないものを産み出し,あるものを変えてしまい、自分の脚を食うような「開発」という破壊にまい進せざるを得ない状態です。

資本主義という体制が自由をうたい、金という一見共通の価値を,どんどんゆがめて,一方的な比重で奇形化してきました。ここまで歪んだ想像は地球という場所からはみ出てしまい,海の中にまで汚染物質を溢れさせ,やがて魚の生息も3分の1にまで減るだろうといわれるくらいに,無駄な消費に走っていますが、それでもなお成長経済だといっている政治家の無知には有罪を宣告するべきだと思います。

しかし,大問題なのはこの環境を転換して,どうやったらこの悪循環を止めることができるのでしょうか。
マルクスはそれを予言して,問題提起をしていますがサピエンスの生き方を変換するまでには至っていません。
社会というものがこれほどまでに肥大化して,奇形化しているのに,経済という巨大な虚構を御する方法についてはまだ誰も答えを出せずにいるのです。

雨が降れば線状降水帯などという豪雨に見舞われ,災害が頻発する状態なのに,根本的な発想の転換は何も為されていないままです。
でも,サピエンスが本当に賢い人であるならば、その想像力を駆使して,それこそ持続可能な社会の構築をしなければなりません。

文化といわれるけれど,芸術もものを作るわけではありません。
ものは作らないけれど,想像をより実体化して(なんとおぞましい言葉だ)社会全体の共有する感覚として,もっと育ててゆくことでしか,経済を転換する方法はないような気がしています。
だから、文化芸術が今ほど重要な位置を占めている時代はないのです。

そんな尻切れトンボな事でしか,結べないのが残念ですが,今こそ芸術が社会参加をして共有させる事が求められる時代なのではないでしょうか。
まったく抽象的でなんの具体策にもなっていませんが、芸術ということが社会を変えざるを得ないくらいに、現在の社会が平和な共有しうる象徴を欠いている時代なのではないでしょうか。
特定な,なにかの芸術だけが具体的な象徴性を持って社会に拡がるのではなくて,多くの芸術が少しずつ社会参加をしてゆくことで過当な競争や,偏在する価値を持つのではなく,多くの人たちが価値を共有しうるなにかを産み打差中得ればならないような気がします。
それは社会主義リアリズムというような偏狭さではなく普遍的な象徴を許し合える何かをです。

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