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ようやく、ウエブサイトを出すことができるようになりました。WordPressの教則本を何冊買ったことかわからないくらいです。何年前から取り組み始めたかも記憶が曖昧なくらいです。しかし、まだたったの2ページだけですが何とか「まちてくギャラリー」の概要が見えるようにはなったと思います。これから「過去の展示」や作ってきた小冊子のPDFなども閲覧ダウンロードできるようにしてゆきます。
現在の展示 2月3日〜4月30日 達川 清 展 次回は「伊藤 彰規 展」

今月のけやきラウンジ

けやきラウンジは、東和図書館の中にある喫茶店です。その壁面をギャラリースペースとして今まで多くの作家の作品を一ヶ月単位で紹介してきました。
2015年に亡くなってしまった、画家の五十嵐彰さんが多くの作家達に呼びかけて「ケヤキの会」をたちあげ、その会員の会費を維持費に充てながら長年にわたって続いています。
ここではそのけやきラウンジでの展覧会を紹介してゆきたいと思っています。

ケヤキラウンジの工事

2月の後半から3月いっぱい、ケヤキラウンジの排水周りの工事が入り、営業ができなくなっています。

ギャラリーもその間お休みです。

菅沼 綠 展       2023年10月7日(土)〜10月31日(火)

10月は私自身の展示です。10月21日から3ヶ月間は岩手県立美術館の常設展示の特別展示として、わたしの作品が一部屋与えられての展示があるので、それに合わせて「けやきラウンジ」でも展示をしようと欲張りました。
県美の壁面は高さが5メートル近くあり、幅も19メートルが両側にあり、短いほうの壁も10メートルと広いのでひとつひとつのパーツも大きく作りました。それらを6パターン作って、そのうちの2種類をケヤキにと考えて用意したのですが、ここの壁には溢れんばかりの大きさになりました。
大きくなれば重さもそれなりに増えて、両面テープの粘着力では固定が難しく、レールからワイヤーで吊りましたが、おじぎをしないように、作品の上の面にL字型の金具をとりつけて、重心がなるべく前に来るように工夫をしてようやく展示を終えましたが、両面テープでも支えきれないものがいくつかあって、展示が終わってからも何度か落ちてしまい、その度にテープの種類を変えてはなんとか乗り切った次第です。
今回の作品は、やはりベニヤ板にアクリル絵の具で着色をしています。
それぞれのパーツは、でき上がりのかたちを想定しておらず、単純で任意の形をひたすらたくさんつくり続け、でき上がったものを組み合わせて、ひとつの「よせあつめ」にしています。
ですから組み合わせを変えれば、さまざまなカタチにアレンジができるというものです。つまりこれは積み木なのです。
平面的な積み木です。
そして、その積まれた、よせ集められたカタチにはある程度のイメージを含ませるようにしました。あまり具体的なイメージになると、固定化されたイメージになってしまうのである程度あいまいなイメージにとどめるようにしたわけです。
21日からの県立美術館での展示は、この延長の作品に加え、美術館で所蔵していてくれるものと、ムクの木を使ってつくられた作品と、紙粘土の作品も加えて展示する予定です。
どうぞ、そちらも見ていただけるとわたしの制作の推移がわかるかと思います。

多賀谷 肇子 展    2023年9月13日(水)〜9月30日

トールペイントの展示です。
いろいろな形に整形されたお皿のような形であったり、箱やちり取りという実用的で装飾的な「物」に直接絵を描く伝統的な要素もあると思います。
その装飾の多くはシンメトリカルな構図が多く、模様としての絵画です。
一般的な絵画は、絵の具のタッチにムラがあったり輪郭がぼやけたりしながら、あいまいな表現の中に表現する人の意思が込められることが多いかと思います。
ここにあるペイントは模様としての装飾的な要素が強く意識されているので、くっきりとした輪郭と色彩が順序よく並んで、その配置の仕方を几帳面に考えて構図を作られているのだと思いました。
非常に丁寧に形を作り、彩色を考えられた作品からは、そのフォーマットをきちんと守り、かつアイデンティティを表現する愉しさが感じられました。

阿部 龍一 展    2023年 8月3日〜8月31日

〈童 Ⅰ〉石塑粘土

〈うぶすな〉 石塑粘土、流木、和紙、アクリル、他

〈大地 Ⅱ〉 石塑粘土、流木、和紙、アクリル、他

〈観音頭像〉 石塑粘土

上の3点の写真は、板に石塑粘土(わたしは使ったことがありませんので、実際の使用感については想像の範囲でしかありません)で作られた、どことなく神話を思い出させるような状況を荒々しく板の上に再現しようとしているかのようです。
彼が良く使う題名として〈産土・うぶすな〉という言葉がわたしの記憶にも残っています。
産土というのは、生まれた土地の守護神を表すといわれているようです。場所の守護神であるということは出生地の神様で、その人を一生に渡って護る神様として信仰されている、とあります。
そういう神様のあり方が、これほど荒々しく、混とんとしたものなのかは知りませんが、阿部さんが作る作品はいつも混とんとした背景と、これほど汚れていなければ、きっと端正な顔立ちを思わせる顔の像が絵の具で汚されて、不可思議な神様への畏れが、混とんの底から湧き上がるように感じられます。
一方の、下の2点の写真の作品は、真っ白な観音様と若い女性の胸像は新しい構想から生まれたのでしょうか。
そのどちらも、整った形で表わされて、自分の具象的な再現性を自信を持って挑戦するに至ったのだろうと思いながら見ました。
上の三点の作品と、下の2点。対照的でその性格もまったく違うモノだと思います。
そういう違いを乗り越えて、同時にまったく違う作品をあえていっしょに並べたのは、これからの展開の予告のように思ったのですが、どうなんでしょう。
また次が楽しみでもあります。
                                                 2023年8月8日

かみむら光一展

ケヤキへいく前に、電話で少し話しをしました。「DARK FORESTS」という題名の5点が一番新しいので、その写真を撮ってきてほしい。ということでした。で、それらも含めて何枚かの写真を撮って戻ってきました。しかし、やはりアクリルの板があるので反射してしまい、残念な結果でした。上の写真4枚です。
今回の展覧会とは違うけれど、少し前に上村さんの家へ行って、昔の作品を見せてもらったことがあります。
それは上村さんが、東和町の石鳩岡にいたころの、近所の景色を鉛筆でスケッチしたものです。これらの絵は、以前にも上村さんに見せてもらったことがあって、印象に強く残っていました。それらは下の写真です。

これらのスケッチを観ると、硬質な鉛筆の線が上村さんのアイデンティティを物語っているような気がしたのです。そして、そこには「絵を描くこと」の愉しみまで現れているように思ったのです。
そのことは、いつも上村さんと話しをしているのですが、にもかかわらず、上村さんがこうしたスケッチをやめてしまいました。
次には、模様のような絵を描き続け、さらには今回のような、意味のない線を繰り返し、まるで殴り書きのように、それまでの絵を否定するかのような作品を書き続けるのは、やはり理由があるのだと思います。

ここまで書いて、上村さんと電話で話しをしたのですが、やはり眼の前にあるものをあるように書くことというよりも、自分の内側に湧いてくるイメージを形にするということのほうが、より自分に対して正直な表現になるのではないかと、考えているということでした。
しかし、内なるイメージというのはおそらく、本人にとってもなかなか不可解な存在で、それを具体的な形に置き換える操作というのは非常に難しい作業になるのだろうと想像しています。
卑近な例でいえば、何でも自由に描いてみろと云われたところで、ハイそうですかとはいきにくいということだと思います。
私たちは、普段から人と話をするうえでも、話の内容について、イメージをしながら会話を進めているはずです。昨日あったできごとを説明するにしても、お互いにその場面が想像できるように、説明もするし、受け取るのだと思います。
「昨日は電車に乗って、青森まで行ってきた」と聞けば、自分が経験したその風景を思い出しながら、「ああ、あの風景の青森ね」と具体的に想像ができます。
絵についても、自分の知っている風景と重ね合わせて、あのビルが描かれている青森の景色だ。と思い、そのイメージと共通の想像を探して、その通りだと思ったり、自分のイメージと違えば、ああこれがその人の青森のイメージなんだなと、考えるかも知れません。その時に、絵というものを媒介してイメージの交換がおきるのではないでしょうか。
そして、そこでは青森の風景という具体的な象徴が橋渡しをするのだけれども、それはある種、既成のイメージというか、すでにあるものを媒介約として使っているわけです。
だけど、それは一方で自らのオリジナルではなく、既成のイメージであり、既成の媒介役を持ったイメージに依存していることにもなるのだと思います。
そうではなくて、自らが作り出した、オリジナルなイメージというものがあるのだとすれば、それを表現しようとすることが、より本来のオリジナルに近くなるのではないか、と考えることが抽象的な表現の始まりではないでしょうか。
そういう、オリジナルに対する欲求が上村さんの中にふつふつと湧いて、なんとかそれを表現しようとしているのだ。
殴り書きのように、黒い線を重ね暗中模索をくりかえし、ぐるぐると曲線が重なって下の色を隠し、否定するかのように打ち消したかと思うと、また色を改めて試してみて、またそれを消す。
そうした否定と模索の、いや、模索と否定を表にしたり、裏の隠したりの循環が絵を描く人の、多くの矛盾であったり、肯定でもあるように思います。
そういう、往復がすこしづつ焦点を結び、単なる往復運動であった繰り返しが意思になってなにかを伝えることに昇華するようになってくるのだと思います。
昇華といえば格好がいいかも知れませんが、じつはみじめなまでの往復運動に出口を見つけられず挫折を味わう事のほうが多いはずです。
こうやって言葉で、文字でいうのは簡単ですが、実感というかがつんと抵抗感にであって、それがバネになることは、そうそう味わえないはずです。
何だか上から目線のものいいになってしまったようですが、こういうことはまさしく自分におきている、長きにわたる往復運動そのものです。そしてわたしが、その往復にがつんとぶつかる抵抗感を実際に経験しているのか、といえばそれははなはだ怪しい物言いの無責任な発言でしかありません。
それを、実証するためにわたしも考え続けなければならないし、作りつっづけなくてはなりません。人のことだと思って、いい加減なことを書いて、言えば自分に返ってくる言葉の羅列です。

6月3日〜30日 柳田 亮とけんちく新聞展

柳田君は上の写真のように、自分が気に入った建物の姿を追い続けてはや20年。という私設の新聞を作り続けています。
昔から、日本中には私設新聞はかずかずあれど、こうして記事までが手書きのもので20年以上発行しているというのは、きっとあまりないと思います。
その文章はかなり個人的な日常の気まぐれな生活ぶりもあらわれる、肩にもどこにも力というものを感じさせない、柔軟な言葉で溢れています。
その紙面には、古い建物をスケッチして貼り込んでいます。
しかしそのスケッチも、気ままに描かれて途中で終わっているものもたくさんありますが、絵というものは、途中も終わりもない、その過程が作品なのです。むしろ、完成度などということを気にすると、ちじこまってしまい、ろくなことはないので走り描きのようなくらいが、個人的な思いが滲んで愛着すら感じさせます。
しかし彼の建物の絵は、当然ですけど、縦と横の線で描かれていることが多く、その線の正確さにこだわりを持たないように見えます。実際のところは訊いたこともないので、わかりません。でも、観るほうとしては、安心して眺められる絵になっているのだと思います。

いかに、その原画をスキャンしていくつか載せることにします。

日下信介展

けやきラウンジ  東和図書館内 4月1日〜30日 10:30〜18:00 毎週月曜日・第2火曜日定休

F10 板パネルに寒冷紗 アクリル絵の具 色鉛筆

パネルに貼った寒冷紗の粗い目が絵の材質感を醸し出して、どこかでいつか見たような錯覚というか、既視感を呼び覚ますような感じが、独特なマチエールを作り出しています。
どこか、印刷写真の網目が粗くなって古い時間を作り出しているような感じもしました。

小原民子 展
2023年3月2日(木)〜3月30日(木)休日毎週月曜日・第2火曜日 10:30〜18:00 最終日は16:00まで 

layer No2 2017

表現の多様性ということが、私にはまだよく分かっていないらしくて、この小原民子さんの絵を見るといつも????な状態になってしまうのです。
なんでだ?彼女の作品を見るたびに、そのスタイルが変わっていて、私にはつかみ所のない感じがして、一体彼女は何を持って表現をしようとしているんだろう。と思ってしまうのです。
上の写真の作品は2017年のもので、色が変わっていく様子に興味を魅かれていて、その興味はずっと、絵を描き始めた時からの主題だといいます。
この作品は小さなものですが、水彩で色がにじむように周辺に拡がりながら色の変化を見ているのだろうと思います。
水ににじむ色の広がりと、任意の筆の運びからそれぞれのかたちがてんでんばらばらに展開して、その様子が自分自身にコントロールしきれないというか、調節しない、筆まかせのようなたたずまいが面白いと、それでも思い、一番先に写真をあげました。

そもそも、絵ってなんだ?表現も自由で勝手気ままでしかるべきだよな。そういう当たり前な疑問のいっぱい詰まった瓶の中に飛び込んじゃったみたいな気持ちにさせられる彼女の作品だと、ずっと思ってきました。
下の作品は「layer of color」と題されていて、いろいろな大きさの丸い色が重なって、色が変わるところに興味があるのだ、という説明でした。

私を???な状態にしてしまう不可解な表現というのは、どういう構造なんだろうか。そもそもそんなふうに、何でも解明できると思うことの方が上から目線の硬直の唯物的な、しかも理解することが前提になっている阿呆な対物感なのかもしれません。
小原さんという人が絵を表現しようとすることを他人の私がとやかく言うことではないのかもしれません。でも、それこそディスコミュニケーションだと思うので、表現ということの不思議さに思いを巡らせるのですが、迷い道ふらふらです。
均整のとれた表現とかいう言い方があるけれど、その均整ということがすでに便利にまとめてしまうだけの、垂直思考だと思うのです。
何だか、ふらふらと同じところを行ったり来たりで、一向に前へ進まずすみません。
もしかすると彼女も表現するということの不可解さなどには全く興味もなく、眼の前のキャンバスに向かって、現在の興味、つまり、自分が今、「抱いている色の変化」そのものに向かって試行錯誤を自分の方法で重ねているだけのことかもしれません。いや、きっとそうだと思います。
色のかたちなどは、どうでも良くて、色を支えてくれさえすれば形態などはどうでも良いのかもしれません。
今描いているという作品の写真を見せてくれました。
それは、もっとはっきり形態などは放り投げて、色そのものを混ぜたり、溶け込ませたりしている様子を感じさせる、彼女の遊びが見えるような気がしました。
それらの作品は、9月に盛岡のギャラリー彩園子で発表するそうです。
それを愉しみにすることにします。
方法なんてどうでもいいんだと改めて思う作品でした。

layer of color
layer of color

ここまでけやきラウンジでの小原民子展の感想

上村コーイチ展
2022年10月1日(木)〜30日(金)休日毎週月曜日・第2火曜日 10:30〜18:00 最終日は16:00まで 

二つの作品が対称的に並んでかけられていました
大きい壁にもまだ沢山の作品がならんでいますが、ここではこの2点を紹介しました。
〈ウクライナ オマージュ〉ミックストメディア
〈ブラック フラッグ〉ミックスト メディア

9月の「けやきラウンジ」は上村コーイチ展です。
上村さんは1948年大阪市都島区生まれで、美大受験のために上京をしてそのまま東京圏でテキスタイルのデザインをしながら暮らしていましたが、ほとんど偶然のように東和町で生活を始めることになります。
奥さんの郷里が小樽だったこともあり、夏には北海道へ旅をしていたこともあり、札幌の画廊で私は知り合いになった経緯があります。
奥さんのお姉さんが札幌で銅版画の教室を開いていて、その旦那さんは画廊を経営していたこともあり、札幌で個展をするようになっていた私とそこで交差したわけです。
そして、私も岩手へ移り住もうとして偶然にも同じ町でいっしょになるわけです。
そういう経緯で上村さんと東和町で再会するのですが、奥さんが体を壊して、それ以後の上村さんの献身的な介護の時間は非常にという言葉をつけなくてはならないくらいに、思いやりの深い時間だったと思います。そのことは多くの人たちが認めて、それをみんなが応援をしている様子ははたから見ていても心が温まるものがありました。
しかし、奥さんは亡くなってしまいました。それ以後の上村さんの落胆ぶりはとても激しくて、上村さん自身の活力もすべて奥さんのために使い果たしてしまったのかと思われるほどでした。
ようやく、時間が流れて上村さんに活力が戻ってきたのです。
そして、再び自身の作品に向き合う時間が増えてきて、こうして「けやきラウンジ」での展覧会が再開したというわけです。

以前の上村さんの作品には近所の山や林を散歩をして描いたスケッチが沢山あって、その何気ない風景の中に走る線が上村さんの感覚と眼にかっちっとした知的な感受性を見つける瞬間を何度も感じていました。
だから、私は、上村さんにそのことを何度か話したことがあるのですが、上村さんの関心は別のほうへ向いていたようで、私の意見はお門違いだったようでした。
上村さんの絵の中の関心は、ずっと、「線」だったと思うのです。線の表し方が一本の線に影をつけたり、太くしたり、あるいはカクカクと曲げてリズムをつける。そうして線にバリエーションを考えていたんではないでしょうか。
その線が、最近では無意味に不規則なリズムをつけるようにぐちゃぐちゃな殴り書きのような線が増えてきて、あの、風景の中の鉛筆の線の硬質な感覚を否定するような、まったくといっていいほど無意味な線で埋め尽くされるような画面が増えて、私は内心がっかりすることもありました。
しかし、今回の作品にはそのぐちゃぐちゃとした線が自律し始めたような気がしました。
今回ここにあげる写真は二つの作品だけですが、その中にもぐちゃぐちゃと重なる線が沢山ありますが、そこには画面に対して、全体的な構成を積極的に作り上げようとする、本来の上村さんの意思が戻ってきたような気がして好感を抱きました。