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ようやく、ウエブサイトを出すことができるようになりました。WordPressの教則本を何冊買ったことかわからないくらいです。何年前から取り組み始めたかも記憶が曖昧なくらいです。しかし、まだたったの2ページだけですが何とか「まちてくギャラリー」の概要が見えるようにはなったと思います。これから「過去の展示」や作ってきた小冊子のPDFなども閲覧ダウンロードできるようにしてゆきます。
現在の展示 2月3日〜4月30日 「赤川 浩之 展」

49回目の「まちてくギャラリー」伊藤 彰規 展– 2024年5月〜7月の展示「伊藤彰規展」 –

キタミブルー2  キャンバスに油彩 2023年

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キャンバスに油彩 93×73cm 2023年

不思議な感覚です。いや、感覚というものが不思議だといったほうがいいのかもしれません。
伊藤さんの絵には具体的な物が描かれているわけではありません。その多くには青い線が無作為ともとれるような様子で、奔放な勢いで画面いっぱいに縦横に引かれています。そして、その線を打ち消すかのように他の色の絵の具で覆い隠されたりもしていたりです。一見脈絡もなく引かれている線にしても、実物を見ると下地には上に描かれている線以上にマチエールを不定にするためになのか、複雑な操作を施しているのが見えます。そして絵の具を載せ、さらには消していることも分かります。
そうした操作は画面のあらゆるところに見えます。描かれた線も擦り取られ消し去られた形跡も伺えます。それは、計算済みの行為なのか、あるいは画面を構成する過程でのための様々な逡巡なのか、それとも両方なのか、それは作家本人のみが知るところなのかもしれません。
私にはそれ以上の具体的なプロセスを知ることはできません。ただ想像するだけです。
しかし、その想像はおそらく伊藤さんの絵を見る人たちのすべての人が辿るであろう想像のような気もするのです。そして、これらの作品を見る時に(例えそこに描かれている線が縦と横の線だけだとしても)その自由さに見るものの気持ちが奪われるのは確かです。
そして、自由な絵とは何なのかと考えざるを得なくなります。
ある時、親しい友達がうれしそうに言っていた言葉をたびたび思い出します。「作家っていうものは何をやっても自由なんだよな」と。え?そんなことあたり前なんじゃないか、と一瞬思ったのですが本当の自由ってなんだという言葉が頭をかすめます。芸術のために他人を傷つけたり、殺すようなことをしても、それが成り立つのか?彼の頭の中ではそこまで思い描いていたんじゃないか、(だとするとうれしそうにそんなことはいわないはずだけど…)芸術が至上の命題だというのではなく、そこまで自由ということを見つめるべきだといいたかったのかもしれません。
そういう例えはこの伊藤さんの作品の上では少し不適合だったかもしれません。感覚の自由というのはあくまでその人の持っている物事に対する理解と感覚の育て方なんだろうから。
作品に対する自由というのも、もちろん作者の物事に対する思考の対応と思考への裏打ちに補償されなければならないのだと思います。
それに対応する感覚、思考の展開が独自な展開になるべき想像が必要な条件だよな。
ひるがえって、伊藤さんの作品とその感覚の独自な展開の現れがこれらの作品の証明なのだと思います。
キャンバスを引っ掻くように縦横に拡がる青い線の数々の画面に伊藤さんの過去の思考がその青い線に込められているのです。無作為に見える線であっても、それは決して無作為ではなく過去にさかのぼって積み重なった経験の上に、試行錯誤がくり返されての無作為がひとつの意思に昇華しているのだと思います。
作品を長くくり返し作ってきた人であれば、誰もがそうした経過を辿って、同じように試行錯誤の経験をくり返しているはずです。
それでも、一人ひとり違う線になり、色になる事の不思議さ。そのことに、あたり前を通り越してなお感じる不思議に作為というものの不思議さに移ってゆきます。
伊藤さんの線と色の深みに迫ることがかないませんが、それは単なる個性では片づけられない「営為」というべきものに大きさを感じておののくばかりです。

コメント

コメント一覧 (3件)

  • 自由な絵について一言。宇野亞喜良さんと横尾忠則さんが5月の日曜美術館で対談していました。その中で、宇野さんが商業美術には必ず依頼者がいる。しかし芸術には必ずしも依頼者がいるわけでもなく芸術家が創作したいものを創作する、と言ってました。その意味で自由な絵とは芸術そのものなのではないかなと思ったしだいです。

    • コメントに気がつきませんで失礼をしました。今、病院のベッドでiPhoneを手に書き始めています。自由が自発的な行為であることは当然ですが、自由ということがどこまで本当の自発的なことなのかは、別の問題だと思います。
      ひとの概念は勝手に作られるわけではなく、論理的な検証の上に成り立って、そうした思考と経験の上に初めて掲載される有機的な経験の結果だと思います。そして、そうした積み重ねは、さまざまな概念の構築によって出来上がるものではないかと思います。
      そして、そうしたさまざまな概念というものは、結構、規制が絡まっているのだと思います。だから、本当の自由など存在しないと思うのが現在です。仮初の自由に一喜一憂しているというのが本当のところではないかと。

  • まさにその通りですね。芸術そのものは自由でなくてはならないし、芸術家のアイデンティティそのものが芸術であると言わなければならないと思います。
    そうした中で、個別な芸術家の想像も創造また概念にとらわれない自由が求められるのではないでしょうか。伊藤さんの描く線が自由なのは膨大に積み重ねた手の動きが筋肉の動きや、想像の動きからも自由になって、まさしく「伊藤さんの線」を作り出しているのかと思います。

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