1949年生まれの松浦さんは現在、神奈川県の丹沢の麓、しずかな山あいの木立に囲まれたところに暮らしながら制作をしています。
しかし、作品は環境から生まれるのではなく、あくまで作者自身の内面から発生する想像だと思います。
そうした想像が率直に具体化するための環境というものはある程度必要なことかもしれませんが、丹沢の山間木立の合間に暮らしながら、想像を拡げるためにはいい環境だと思います。ひと口にいい環境といっても、主体の考えによってさまざまだからこれが絶対的な事だとはもちろん言えません。
芸術家は孤独な作業を強いられることも多いので、あえて雑踏に身を隠す場合もあるだろうし、電気もないような孤立を選ぶひともあって当然だと思います。
松浦さんの作品はキャンバスに絵の具を塗り重ねられています。色が重なるその縁から漏れる、色ではない別の空気を滲ませているような気がします。
私にはうまくそれを表現することばがないのですが、“曖昧”な色の領域というのでしょうか。混然と同居するような色の集まりに、私も(だと思うのですが…)不思議な魅力を感じずにはいられないのです。
はっきりと識別できる色の領域ではなく、色の変化が漠然といり混ざりる。まるで、海の色が風のさざ波と光の反射でどこまでも変幻を繰り返すような境界を識別することもできない、“曖昧な変化”にこそ訴求力があるように感じ続けています。
なんなのだろう。その変化を“曖昧”などと言い表していいものなのかもずっと考え続けているのですが、もっと適切なことばが分からないでします。
アメリカの作家、名前を忘れましたが針金やおれた釘を無造作に打ち付けたような作品を作るひと。その人は砂漠のような荒れて乾燥したところに、石と土で家を造って住んでいるのを写真で見ました。ドイツの絵描きは、山の斜面に穴を掘るようにして表からは見えない、窓とドアしか見えない、決して穴蔵ではない家に住んでいる写真も見たことがあります。
そういうことを見たりきいたりしていると、環境は非常に密接に想像を支配しているのかもしれないと思います。
そういう環境は、曖昧などではなく、明確な意思であり態度です。
それは、日常の想像が環境を作り、一体化しようという態度だと思います。
しかし、おそらく、作品というものは想像や態度と一体化するものなのだろうか。多分、作品と態度の遊離は永遠に続いて、作品は作者を裏切り続ける宿命のような気もします。
キャンバスに塗り重ねられた色が、透明な被膜の下から、ますます、曖昧な境界を模糊とさせて作者は次への想像を余儀なくさせられる宿命のような気がします。
作品と人の関係はどこまでも遊離して悩ましく誘惑し、されるのだと思うのです。
そんなことを考えたところで、1ミリたりとも前進などしませんけど。
松浦さんも特にタイトルは付けていないということでした。おそらく、自身が作り出すものは皆おなじ思いで生み出されるので、ひとつひとつを区別することはできないということもあるのではないでしょうか。特定をするために番号を振っているようなので、改めて確認して追記します。