鶴巻さんもまた非常に活動的な作家です。
しかし、初めて作品を見たのは、わたしも参加をしていた横浜市民ギャラリーでのグループ展「点の解」2017年4月でのことです。まだ4年前のことでした。
大きな画面を3分割するように縦に色の面が分かれている、その表面から伝わる色と筆の跡の強さが強烈に存在を主張していました。
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自律的な意思が作品を作品たらしめる重要な条件だと思うのですが、にもかかわらず、作家本人はなかなか自律しきれないで苦しむのだけれど。
そして、それは人はすべて、表現する生きものだから、表現しなくては生きられないのだとも思います。
表現なくして命などあろうものか。(世界にはそれすら許されない人々があることもたしかです)
いろんなひとの作品を見るたびに、表現というのはどこまでも多様だと、あまりにも当然だけどいつも思わずにいられません。
自分がしたいと思うこと、することや考えていることは広い意味で表現だと思うし、意識せずにしている表現だって、それが認められれば本人にとってはすこぶる充足します。
唐突ですけど、作家というものは何をやってもいい。全くその通りだと思います。だから、意識的な自律はとても難しいのかもしれません。
でたらめな線を引き、ぐちゃぐちゃと色を塗りたくる。どんなカタチや色であろうとも構わない。それが例え絵ではなくても。それが表現だと考えるならば、表現することになんのためらいが必要でしょうか。
その「表現することに」なんの制約などあろうはずもありません。だから、意識的な自律はとても難しいのかもしれません。
そこに、意思がどのようにかかわっているのか、意思こそが、それこそでたらめを作品として自律させる大きな要件だと思います。
だから、絵画や作品での表現となればなおのこと自分の表現として、個性やほかとは違うオリジナルで個別な空間と時間を強く自分として表そうとするわけだと思うのです。
自分が作る作品の上でのルールが、どういうふうに作品とマッチするのだろうかと考えます。
それに近づくこうと腐心を繰り返しながら苦しまされるのが作品というものなのかもしれません。だから、意識的な自律はとても難しいのかもしれません。
自分が作り出した作品であれば、なおさら、それに対峙しなくてはならないし、悩まなくてはならない不思議な対象です。
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ここにある鶴巻さんの作品は明快な構成と色彩で見る人をとらえ、そのリズムにシンパシーを見るひとにも感じさせて快感につなげる力を持っています。
そして何よりも鶴巻さん自身がそういう力を選んだという事であり、「何をやってもいい」という無限の可能性を自分の中から引き出したのだと思います。
それこそが、芸術の可能性ではないでしょうか。そんな気がします。
《work-1 2015》 76.5×57 版画紙 アクリル
《work-2016》 76.5×57 アクリル 版画紙
《work-1-2018》 76.5×57 アクリル絵の具 版画紙
《WORK-Ⅱ‐Ⅱ》 162×130 2018
《work-2008》 227×182 油彩
《work-2007》 227×182 油彩
《work-1993》 227×182 油彩
《wark-1992》 227×182 油彩
《work-2013》 76.5×57 アクリル 版画紙