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ようやく、ウエブサイトを出すことができるようになりました。WordPressの教則本を何冊買ったことかわからないくらいです。何年前から取り組み始めたかも記憶が曖昧なくらいです。しかし、まだたったの2ページだけですが何とか「まちてくギャラリー」の概要が見えるようにはなったと思います。これから「過去の展示」や作ってきた小冊子のPDFなども閲覧ダウンロードできるようにしてゆきます。

日常と非日常

日々生きているわたし、日常の中にいて、そこから世界というさまざまなできごとや、自らの内側も人を見ているのだろう。
そんなことは当たり前で、誰もがそうしている自然に湧き上がってくる想像のひとつです。

このまちテクギャラリーを始める時思ったことは、かけらのようであってもいいから一年中、そこに「美術」を置いておきたいと思ったことが始まりです。
どこの画廊へ行っても画廊の入り口にはたいてい、よその展覧会の案内状がたくさん貼られていて、それは小さな葉書で写真や、ただタイトル、簡単に日時や場所が示されているだけの場合もあります。そんな小さなものからでも、そこには作家からのなにかしら意思が働いていることを感じます。
そういうたくさんの意思が画廊の入り口の壁に並んでいるわけです。自分の家にも展覧会の案内が届き、手にすると小さな写真からでも作者のさまざまな意思が見えてきます。たった一枚の葉書から現れる、強い意思を感じさせられることもあります。そういうときの出会いには興奮し昂ぶるのです。
芸術は日常の中にもあるけれど、それを見て高揚するのは、そこから非日常へと瞬間的に移動するからなのでしょう。
日々生きて暮らしていることが、命をつなぐための生活であり、それが日常だと思うのです。そして、生活が感覚と思考の場になっています。生活の感覚が一歩踏みこみ、いつもより集中を感じるときにそれは非日常の範囲に踏み込もうとしているのだと思うのです。そして、そういう時に深化が始まって新しい領域に踏み込むことになり、なにか別のものが生み出される時になるのだと思うのです。作品というのはそうした日常を凝縮するように集中した結果でもあると思うのです。
満腹な猫が、日向であくびをしながら伸びをしているのは満たされた日常ですが、次の食料となるものを確保するためには、集中して待ちかまえます。そして、捕食を得た時に新しいものを取り込むことになります。
すべてが日常だけでは緩慢な消費だけですが、集中が新しい事態を作り出してステップを刻む。
日常と非日常が鼓動のように繰り返して螺旋の移動と変化を作るのだと思うのです。
まちテクギャラリーが緩慢な日差しのもとで、商店街の壁につるされて今日も同じ景色を作りだしています。脇に虫が飛んできて止まり日向ぼっこを始める。怠惰な時間間が思考を停止して、ほこりっぽくなったアクリルのケースの下で、凝視されるのを待っています。
日差しの中でじっとりと湿ったひたいの湿気を手の甲でぬぐいながら歩く人の眼に、商品の宣伝でもない、何かしらの告知らしきものが飛び込んできて、変なものだと気づくことになるかもしれません。
脚を止めてのぞき込みますが、そこからなんの刺激もなく胸元の襟をふいごのようにして、すこし風を体に通しながら、また歩き始めて目的の店に入る。それだけの日常かもしれません。
出会いというものは、いつ始まるのか誰にもわかりません。
虫が止まっていた壁にあった写真の記憶が不意によみがえり、なにかを呼び覚ますのはいつのことかわかりませんが、日常を非日常に変えるスイッチはいつ押されるのかわかりません。
それは、スイッチを置かない理由にはならない。

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