
紅葉が紅葉するのは葉緑素が抜けてしまった葉に、紫外線が入り込んで活性酸素が発生するのを防ぐという意味があるそうです。
そういう話を聞くと、生命の仕組みの深遠さにひたすら感じ入ってしまいます。自然界の摂理というのか循環する時間に切れ目がないと感じるのです。そもそも、自然の中の命の仕組みはそうなるべくしてできあがって入るのに、不完全な私たちの想像が自分たちの矛盾をどうにもできないでいる仕組みとの違いなのでしょう。
そして、生命の仕組みのことが徐々に明らかになって、説明がつく事柄として、少しずつ私たちにも既知になるわけです。
だけど、私自身が想像することと、芸術といわれることを説明しようとすると、とても難しくてなかなか整理賀できず、すっきり答えを見いだすことができません。
その「すっきりしない」ということが漠然と拡がって、曖昧なまま引き出しにしまわれてしまいます。
そうやって、すっきりしない曖昧が、いくつも重なって引き出しに入れられると、重なったもの同士が混ざってしまったりで、ますます曖昧さは輪郭を薄めてしまいます。
それでも、引き出しの本人はせっせと引き出しにいれたり出したり繰り返して入るうちに、なにかの拍子に漠然の中で固いものを感じてヒントを得ることもあるのです。そんなことを何度か経験すると、それは実感したと思ってしまうことすらあるのかもしれません。
経験則というやつで、繰り返す経験が体験的な感覚を伴って、かりそめの実感にすらなってしまうのではないでしょうか。
そのことが、間違いなのか、つみ重なって実感だと感じてもいいのかわかりません。
時と場合による。ということなのでしょうか。
私たちのまわりに見えるいろんなことは、頭で考えることだけではなくて、直感的に感じて処理されてしかるべきことも沢山あるので、漠然がいつの間にか、形を作り上げて実感されることもあるはずです。
赤いモミジの葉が紫外線を防ぐように作られていることは、科学的な事実ですが人の手のひらのようなかたちをした葉が紅く染まって、無常の時間に寂寞が流れることは経験の積み重ねなんだろうな。


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