MENU
ようやく、ウエブサイトを出すことができるようになりました。WordPressの教則本を何冊買ったことかわからないくらいです。何年前から取り組み始めたかも記憶が曖昧なくらいです。しかし、まだたったの2ページだけですが何とか「まちてくギャラリー」の概要が見えるようにはなったと思います。これから「過去の展示」や作ってきた小冊子のPDFなども閲覧ダウンロードできるようにしてゆきます。

点の解

ここに上げた写真はアトリエの壁でシミュレーションをしてみた時のものです。
横浜市民ギャラリーで4月5日から11日までの会期でおこなわれた「点の解」展での写真は左のパターンで展示をしていました。
ひとつひとつの形は以前につくられたピースです。こうした小さな形を「集合」させることが、あらたに別の力というかエネルギーを発生する事を期待しての構成です。こうしてみると、「点の解」とはこのことのようでもあるような気がしてきました。たまたまそうなってしまっただけですけど。
かたちということに自分なりのこだわりをもって、ずっとやってきました。長いこと作り続けてきました。結局、というか最初の頃から感じていた、「単純なかたち」から離れることはできませんでした。というか、そうしかならない。

「三つのかたち」
「1600個のかたち」

この写真「1600個のかたち」は1973年神田のときわ画廊でのものです。このときは自分にいくつくらいのかたちを作ることができるだろうかという疑問から始まって、掌に載せられるくらいの大きさで、具体的なイメージによらず、卑近な材料の紙粘土で1600個ほど作ったものです。
形の種類といってもどのような物でも、必ず形を伴うものだし、自分がつくりだすかたちなど、実はありえないと思うのですが、この時はそう思っていました。
しかし、イメージと言うこともまた凄く難しく、大きな問題として私にはのしかかり、ずっとつきまとっていました。
そのことはナカナカ自分の中でまとめることなどできません。最近、ユバル・ノア・ハラリの「人類全史」の漫画本を読み、その中でホモサピエンスが認知革命を経てイメージというものも得たということを知りました。
われわれ現在の人類にとって、このイメージを操作するということこそが他の生物と決定的に違う部分だということです。
そのなかで、芸術ということが、そのイメージというもののなせる一大事業ではないでしょうか。実際にはありえない想像の世界をさまざまに組み合わせて発展させてきた芸術というもののイメージに震えてしまいます。

今回の点の解での作品について書こうと思って開いたこのページですが、どうも話がそれてしまいました。いや、それてはいないはずなのですが、逆に戻りすぎて元へたどり着くのに時間がかかりそうです。


認知革命でホモサピエンスは、想像上で共有できる具体的な存在を作り上げることを覚えたということです。
それまでは、「あいつはライオンをひとりで倒した」という具体的な事実をしか語ることができなかったのに「あいつなら、ライオンを100頭でも倒せる」というフィクションを想像できるようになったことで、「あいつについていけば、喰うものにありつける」から、「あいつは神だ」となり、それは群れ全体で共有できる偶像になるのだと思います。
偶像は、群れのみんなが共有するイメージとして定着して「あいつ」といえば、だれでもが思い浮かべることができる姿として定着したことでしょう。共有できるイメージというものは、だれでもが知っているイメージとして群れを繋ぐ精神的な接着剤にもなったはずです。
「ピカソ」といえば世界中のだれもが知っている芸術家として思い浮かべる存在だから、本当に芸術家なのだろうというイメージに拡がるのだと思います。
共有できるイメージは私たちにとって、ものを考え想像する上でも触媒のような働きをしているのだと思います。
比喩はイメージを誘う言い回しだけど、暗喩はそこに含まれる言葉全体で他の状況を想起させる触媒のようなものではないでしょうか。うまく説明をする事ができませんが、暗喩のようにそこに含まれるイメージが私たちにとっての、想像に共有の掛け橋になっているのだと思うのです。
芸術ということがイメージを拡げ、次元も深めたのは具体的な二次元の描写によってそこには存在しないものでも、あるかのようにイメージされた時、それを見た人の想像力の内側に新たに別のイメージが広がることがあって、それが「イメージの触媒作用によって生まれた新たなイメージ」になるのではないでしょうか。
こういう言葉でうまく説明ができたとはとても思えませんが、イメージ、つまり想像力が働くと次の想像力へと昇華しながら触媒作用のように、新たな次元の想像を生み出す力なのではないでしょうか。

だからイメージという想像を抜きにしては、何も語れないないはずです。伝わり、伝播した時、次に生まれる新たなイメージこそが暗喩だと思うのです。つまり、もしかして、イメージの伝搬はエネルギーの発生すら生み出しているのではないでしょうか。
だから、作品を見られた時に、誘発するであろうイメージを想定してしまうことは、見る人に対してイメージを限定してしまうこと、強制になりかねないと思うのです。そうならない範囲でのイメージ操作というのでしょうか、イメージの狭間でスリルを感じながらも翻弄されているのが自分のような気がします。まったく不思議なゲームでもあるのかもしれません。

「神」というイメージが強く構成されて、世界中の人びとが存在を信じるようになれば、だれもの頭の中に存在し、「神」といえばどんなひともそれを想い起こして、具体的にイメージを形作ります。それは、世界中で共有されるという、他に替えがたい重大な存在として存在することになります。そして、そのことは、その共有されるイメージは具体性を確立してゆきます。それが拡がれば拡がるほど、強く重さもまします。
そういう強大なイメージという想像の中で、お釈迦様の掌で私も筋斗雲に乗っています。


よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

コメントは日本語で入力してください。(スパム対策)

CAPTCHA

目次