
この写真は昭和24〜5年だと思う。まだ負戦直後で世の中は混乱と貧し
さの中でみんな必死な思いで暮らしていた頃。
この場所は、東京椎名町近くにあった、「桜が丘第2パルテノン」と家
主がつけた名前とはおよそかけ離れた5、60軒ものボロ屋が立ち並ぶ
ところだった。
15畳のアトリエに4畳半の畳の部屋、半坪の台所にはコンロがあるだけ。
水道は路地の奥の共同。空襲で焼け出された仲間達がその小さな家の4
畳半に4、5人が居候していたという。子どもは押し入れ。コタツを真ん
中に脚を突っ込んで雑魚寝だったよ。と何度も聞かされていた。
住んでいるのは皆絵描や彫刻たちで、戦争のさなかにジャズのレコード
をかけて踊っていても憲兵はこなかったと、自慢なのか、無頼たちの治
外法権ぶりを笑っていたっけ。
秋になれば上野の美術館へ作品を運ぶのもリアカーに作品を乗せてみん
なで押して運ぶのも、共同体のお祭りのようだったのだろう。
そんな部落の中ではプライバシーなどお構いなしの共同体でした。
そうした暮らしぶりの話は親たちから何度も端を聞いていたし、オヤジ
は二起会の会員だったので、それこそ秋になると石膏取りを手伝いにパ
ルテノンへは通っていた。近所の同世代の子どもたちとも仲良くしてい
たし、住んでいる所は離れていたけれど、しょっちゅう通っていたパル
テノンの暮らしはずっとそばにあったのです。

オヤジのアトリエを再現した模型
絵描きや彫刻家たちが群がるように暮らしていた、その桜が丘第2パル
テノンの一画で私たち兄弟は生まれたのです。
写真の後ろにある家は、15畳のアトリエと4畳半の畳の部屋がひとつ、
ひと坪の玄関に台所にコンロがあるだけの粗末なバラック。
この第2パルテノンには30軒ほどが軒を連ねていたのです。
オヤジはおそらく昭和12年ごろからここを借りていたと思う。同様に当
時の絵かきや彫刻家たちの多くはここを拠点にして活動を続けていて、
東京の芸術家たちのスタート地点になっていたのです。
両隣も、裏も前もみんなそうした人たちが暮らしていた。
そして、皆貧乏だった。そんな小さなボロ家の4畳半に4人も5人も居候が
いたというから、およそ暮らしぶりは想像がつくというもの。
そうした暮らしぶりが、わたしの家ではよく話題になり、鍋を隣に貸すと
あたりの家を一周して戻ってきたという笑い話や、天気のいい日に表で、
隣のおじさんが子どもの耳掃除をしてくれて気持ちよかった景色を今でも
思いだす。
母親がコメの配給に並んでいると雨になり、こまっていると傘を差し出す
人があり、振り返るとその寡黙なお隣りだったという。言葉もいらないコ
ミュニティでもあったのだろう。
ある時、写真機をぶら下げた人が通りがかり、子どもの写真を撮らせて
くれと言って何枚かの写真を撮っていった、というのです。
後から出来上がった写真をもってきて、何がしかの代金を払ったという事。
それが上の写真。
その人もそうして暮らしを立てていたのかも知れません。
ある時、母親が付けていた家計簿の束をめくっていると、「掻爬代100円
〇〇さんへ」とあるのを見て、そういう事のやり取りもあったのかと、
当事の若い交流の断片が浮かんで、母親の鉛筆の字から生活の有り様がや
けに具体的見え、えらく深く心のうちに刻まれた記憶のひとつです。

