

今日電話がありました。
今回のまちてくギャラリーはどういう意図で展示をしているのか聴きたいということでした。
早速、土沢へ向かって話しをしました。
赤い血の流れる中にひとが倒れている写真を見てとても心が痛んだと話をされました。
どういうことなんだろうと思い、文章を読んで病気と戦っている姿だということは分かりましたが、
写真の様子を見るたびに心が痛んでしかたがないと、話されました。
画廊や美術館の中であれば、それを見るために出向き、自分の意思でそれを見るけれど、
誰でもが見る事のできる通りにそれがあればどうしても目に入るものです。
見たくないと目を背けたとしても、心が痛んでしまいます。と話されました。
表現をすることは自由です。心の中でどのような考えを持とうとも、思うことも自由です。
そして、ひとの表現を受け入れることができないと、考えることも自由です。
そして、ここは公共の場所で、誰もが歩き、暮す基本的な場所でもあります。
表現者としてのさいとう君の意思も自由です。
そしてそれを見て評価するのも自由です。
しかし、どちらの自由が優先されるべきかは比べるものでもないと思います。
自分の思考を芸術として表現をすることは、自分の存在を証明する行為でもあります。
いっぽうで、それを見て自分の気持ちに傷がついてしまったと、
表現することも自己の存在の証明であると思います。
それではどちらが優先されるのか、両方共です。
そして、それが共存するのは場所の問題だと思います。
観る側が、それを選ぶことができない、こうした公共の場所では
受ける側の意思が優先されるべきではないかと思います。
鑑賞者として観ることと、自分の立場を大事にして、傷つきたくないひとも当然あるはずです。
日常の暮らしの中で、それぞれが自分の生き方を送るコミュニティの中で傷をつける権利などは
誰も持つことはできない筈です。
表現をする側と、それを企画して展示する側のわたし。
観てしまう、感じる側としての感性が受け入れられないと思うことの齟齬。
さいとう君にはメールをして、妥協案をお願いしました。
それが、右の写真です。
白血病の苦しい日常にあらがいながら前に進もうと表現をするひとの意思にも
日常の意味が深く刻まれています。
同様にそれを拒否する事も、心情を護る意味があります。
その食い違いは、埋めることができない相克になってしまっては鳴らないと思います。
次元の位置の違う事を言い争うのも決して新しいことを生み出さないと思います。

