
昨日、東京から三輪さんがきた。
彼女がここ土沢のまちてくギャラリーへ来るのは三度目。一度目は、作品をじかに持って、そこがどういう様子なのかを見にきて、次は展示の様子を確認に。そして昨日は改めて確認に。十二時四十分の新幹線で新花巻に着き、私の車で土沢を案内して歩いた。五百メートルほどの商店街の26ヶ所にある写真での展示は直射日光に晒されて糊が剥がれてしまっているところもあり一度は直したりもしているけれど、紙がゆがんで完全とはいえない状態のところもある。これまでにも違う貼り方を繰り返してはいるけれど、この夏は非常に暑かったし、太陽の力の繰り返す破壊力には驚くばかり。次はもう1枚アクリルの板を上に挟むようにする予定です。
そして、三輪さんは自らを活字中毒というくらいの本の虫で、今日も新幹線を乗り過ごすところだったといっていました。
彼女はフランス哲学をよく読んでいて、上の写真のグルニエの「地中海の瞑想」を置いていってくれました。私は若い頃、倉重の影響でそうした本をたくさん買いましたが、どれも読み切ることができず、倉重から聞くそうした人たちの思想について、なんども詳しく教えてもらっていました。彼は読んだ本を反芻するように語り、思索の矛盾を考え、その向こう側にある感覚に結びつけ、肉体としての思想を語っているのだと想います。
その倉重から強く勧められたグルニエの「昼」と「夜」の2冊は汚れるまで何度も繰り返し読んだのだけれど、私の読み方は中途半端に感覚的で、ついには彼のいうような感覚には追いつくことはできませんでした。
若い頃は倉重と家が非常に近かったので、毎日のように合いそうした話をしていました。いや、聴いていただけなのかも知れません。
倉重の感覚には知識ではなく識りえたことを、自分の感覚で骨格にしてゆく芯があるのだと思います。そうした友達をごく身近に持てていたことを幸福だと思うのです。
そうした、本と感覚の話を昨日の午後は三輪さんと共有して、久方ぶりに充実した時間を共有できたのです。
その三輪さんはグルニエの話を聞かせてくれ、倉重との時間のことを思い返し、その本を置いていってくれ、もう暗くなってしまった6時の新幹線の北上駅で別れました。

