



昨日と今日5月2日の2日間で永野さんの作品写真の展示をしてきました。
1点だけですが、空き店舗の1軒をこの『まちてくギャラリー』のために開放してくれて実現し、オリジナルも展示する場所ができてから10回の展示ができました。それはとてもありがたいことです。

もともとあったウインドーをさらに拡げて作品が見やすいように改修をしてくれ、夜はこうして照明もついています。手前の台の上にカタログを置いて参考にもなると思います。

日常の生活空間の中にこうして展示をすることは、非常に問題もあります。それは究極のオフホワイトキューブです。
しかし、写真で作品を日常の空間に置くことは、やはり本来の作品とは違う媒体としては弱さを否定することはできないと思っています。
それでも、あえてこうして続けているのは日常の中に芸術という非日常があるべきだと思うからです。
べつに、日常をぶち壊してでも非日常を主張しようというものでもなく、私たちの暮らしというものは、つねにこの日常と非日常は混在しているのに、とくに何でもない日常を温存して非日常を忘れてしまおうとする傾向があると思うのです。そりゃそうですよね。何でもない日常が継続することの方が安泰で無難です。
だけど、どうしても避けられない非日常は必ず日常の変化をもたらしにやってきます。
そんなことをあえていわなくても、平坦な日常を多少の刺激することは必要なことのはずです。そうした刺激はなにも美術だけが加えられる変化というわけでもありませんが、美術を含む芸術を感じることの刺激をこの日常の中に紛れ込ませること。その紛れ込ませ方はもっと他にもたくさん有効な形で提示することもできるはずだし、世の中にはたくさんの提示が存在しています。
そしてこの『まちてくギャラリー』が効果的な非日常の提示ではないかではないかも知れません知れません。
それでも、これはわたしのやり方としての、日常と非日常のミックスジュースです。

〈 風をつないで 〉 2022年 雲膚麻紙に岩絵の具、アクリル絵の具
静かな水面にわずかな細かい波が拡がって、対岸だろうかの微かに景色を想像させています。横に長い画角の画面からも、対岸の景色を想像させる意識を感じてしまいます。わずかにそよぐ風にすら水面は反応をしてさざ波を作り出して、映る景色を乱しています。空を写しているだろう青い影と白く光ってなにかの形象を思わせるかたまり。それらの色のかたまりが不定形の色の面として見れば、ただの色の変化として見るだろうけれど、ここには、水面のさざ波が忠実に再現されています。
その微細なさざ波の形が映る景色によって、白く輝き、青く沈んでいる影の存在を波の形を微細なようすで再現されて、その繰り返しがこの絵の具体性と不定形な影によって、抽象的な部分をはっきりと共存させています。

〈Otagawa〉 2022年 雲膚麻紙に岩絵の具、アクリル絵の具
そしてこうした感想はあくまでわたしの思いであり、客観的な意見でもありません。絵画や彫刻といった作品というものを見て感じる、直感的な印象を言葉にして確認しようと思っているのです。
それらの言葉が適切なのかいささか心もとないというか、怪しげな部分もあります。しかし、作品というものは直感的な印象から始まるものだとも思うのです。
だからおそらく、永野さんが考えているイメージとかけ離れたことを、わたしは長野さんの作品から思い起こしているのかも知れません。でも、わたしが長野さんの作品から思い描くことはわたしの感想であり、私自身のイメージの拡がりを愉しんでいるのです。それは開き直りなのかも知れませんがそうしたわたしのかんそうと、長野さん自身の描画体験を追跡を目指しているのに、全くの見当外れの可能性も否定できません。

〈 aqua xiii 〉 2021年 雲膚麻紙に岩絵の具、アクリル絵の具
それでもあえて私の感想としての文章と、作品自身の主張が多少ずれていたとしても、作家と鑑賞者のあいだにはある程度の差が認められるのではないでしょうか。勝手にそんなことを言い訳にしています。
鑑賞者の主体性としてもそれはあり得るとも思うのです。
ともかく、水面を覆う細かなちりめんのような模様が、向こう側の景色をぼやかして映すあいまいさは、観るものの想像をかき立てるし、作家本人は映る景色の向こう側を考えるのではなく、静止水明の鏡でもなくただ単純に水明を避けて動くさざ波の状態が表面を変えてしまうそのことをだけ考えているのかも知れません。
いやいやそんなことでもなく、全く別の見方があるのかも知れません。
まず、一番最初に観たときの印象的な感覚を大事にして感じさせてください。

〈 AQUA Ⅺ 〉 2022年 雲膚麻紙に岩絵の具、アクリル絵の具