毎年、この「けやきラウンジ」で開かれている上村さんの展覧会。
最近はこの写真の作品にも見られるように、ぐしゃぐしゃと塗りつぶすでもなく、丸めた線で画面を埋めるように、あるいは作品そのものを否定するかのようにぐしゃぐしゃと線が描かれている事が目に付きます。
新しいかたちを求めてたどり着いた結果を表しているのかもしれません。
去年までの作品の形とは明らかな違いが見えるからです。
こんがらかった糸のようにクシャクシャと丸められた黒い線、そこにはあまり具体的な意図は込められていないのかもしれません。ただ、そういうあいまいな線が塊になった時に無作為の力になる事を期待しているのかもしれないと思いました。
無作為の力という言い方もかなりあいまいな言い方かもしれません。無作為の反対は作為だと思いますが、作為というのはそれこそとても難しく、意図に反して、自らの表現すら思わぬ方向へひっくり返すことになってしまう事すらあります。
作品に向かって、これから自分の意図を形にしようとイメージを膨らませ、イメージは具体的に頭の上に現れてきて、後はただそのイメージをトレースすればいいだけのように感じて、筆を走らせる。
具体的にイメージがだんだんと輪郭を頭の中ではっきりしてきて、それを紙の上に描く。それが絵書きの仕事だけど、イメージ通りにそれが現れるのか、心もとない気がする時だってあるでしょう。いや、逆にどんどんと筆は走り、色は重なって現れる形に興奮を抑える事ができないくらいに、気持ちがいい時だってあります。
表現をするという事は実際どういう事なのか、そのことをずっと考え続けていますけれど、ただ「ふしぎなこと」という言葉くらいしか出てこないまま、何十年もそのことをやっている。というのがわたしの場合の本音です。
思った事をそのまま言葉にできて、自分で納得できるような言葉であれば、なおのこと気持ちがいいし、その時の状態こそが「表現」なのではないでしょうか。
そんなあいまいな言葉でしかわたしには説明ができませんが、思った事がすなおに表に出てくる状態はとても気持ちがいいものです。「素直な表現」こそ他人にとっても同様に気持ちがいいものなのだと思います。
でも、素直であればいいのでしょうか。いくら素直であっても「作為」との交差点で全くかみ合わない事もよくある事で、むしろその方が圧倒的に多いはずです。
そこで誰もがつまずき齟齬に悩むところで、それがあるからこそ原動力だという場合もあるのだと思います。
芸術はもともとそれがあいまいだからこそ、芸術なのかもしれません。
何だか話しがちっとも前に進みません。結局のところ、線が面白いとか、色きれいだとか、芸術は感覚的に美しさとか興味を魅かれた経験則から、何となく漠然と芸術とはこうしたものではないだろうかという、おおまかな姿をそれぞれの気持ちの中で判断されて、推測をされて、だんだんとかたちを整えて来るという事が、一般的な状況なのではないでしょうか。
興味や想像は人それぞれによって、全く自由に広げる事ができるので、それが間違いだという事はだれにも言えないはずだし、それで正しいという事も幾多の例を引くまでもないと思います。
わたしにしても、人の作品をどうこう言えるような立場でもないし、自分が多くの例を考えて経験しているわけでもありません。何しろ大いに迷いに迷っているまっただ中です。そういうわたしが差し出がましく、感想を公にするのは無責任に過ぎるというものだとも思います。
結局、この写真の作品についてわたしの感想は、全く意味を成さないという話しになってしまいました。
芸術というものは全くの自由です。
どんなことをしたって、作家自身がそれがいいと考えてやるのであれば、「それは作品である」といえるはずです。
それを、そうやってでき上がってきた作品を認められるか。ということでもある。
でも、それを認めると観る側としての責任が全く無視されてしまうことになるような気がします。
そうだとすれば、観る側の能力とか責任感として、どんな作品も作品ですといって認めてしまうのは、取るべき態度ではないと思うのです。
わたしは上村さんの作品の線というのは、東和町へ移住してきたころの森を散歩しながら描いたスケッチの木々の様子に感動をしながら生まれきた、「あの線」がとても好きで忘れることができません。それは線に力強さがあって、その力の後ろには上村さんの驚きと意思が潜んでいるように感じたからです。
あの線をもっと観ていたい。
今度上村さんの家へ行って見せてもらってこようと強く思います。




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