

18才の時に俺も彫刻家になろうと思い、日大の芸術学部に入り彫刻の勉強が始まりました。しかし、先生の言うことはチンプンカンプン。でも自分の意思で勉強をすることがこんなに楽しいことだったのかと毎日がキラキラしていて、日曜だろうが夏休みだろうが学校へ行ってアトリエで作品を作っていたものです。彫刻が何なのかわからないなら、自分で作るものが彫刻だ!と思うことにして自分勝手な作品をつくり続けてうん10年。
いまだに彫刻のことなんかわからないけれど、自分が彫刻だと思えばそれが彫刻だと思い続け、まさに自分勝手な制作を始めたのもウン10年。
そうなんです私の作品は全てが自分勝手でできているんです。人の想像力とは一体、何なのだろうとも思います。そしてその想像がコミュニケーションの道具になるという事も不思議に思うのです。私は作品とはうんこのようなものだとずっと思っていました。自分が体に取り込んだ全てのものが、その体を形成して自分というものになってゆくそのひとつの結果として、排出されるうんこであり、その排出されたものには多くの要素が無数に含まれているように作品もまた、私の想像が消化して姿を変えた生産物だと思っていたのです。
だから、想像活動をするために目から入るもの、耳からも口も働かせて多くのことを刺激として受け入れなくてはなりません。いや、ねばならないのではなく、外界からのさまざまな要素を考えることで吸収することになるのだと思うのです。
そして死の結果を表に出すときのカタチはすでに言葉や色や匂いも全てがカタチを変えるのです。吸収したカタチそのままでは消化したことにもならず、きちんと消化したならば形が変わっていなければなりません。それが暗喩だと思うのです。
暗喩こそが吸収の結果ではないでしょうか。
分解して吸収する想像。そして表現は暗喩になって排出されるのではないでしょうか。

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