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ようやく、ウエブサイトを出すことができるようになりました。WordPressの教則本を何冊買ったことかわからないくらいです。何年前から取り組み始めたかも記憶が曖昧なくらいです。しかし、まだたったの2ページだけですが何とか「まちてくギャラリー」の概要が見えるようにはなったと思います。これから「過去の展示」や作ってきた小冊子のPDFなども閲覧ダウンロードできるようにしてゆきます。

54 三輪 暁 展

8月3日から54回目のまちてくギャラリーは三輪暁さんの作品を写真で紹介します。
1ヶ所だけ「まちてく画廊ライブラリー」という空き店舗のウインドーを改装した場所にオリジナル作品を展示しています。この窓は北向きなので直射日光も入らず、作品に悪影響を与えることも少ない場所です。

この窓の手前には展示台があり、資料のようなものがあれば置くのですが、今回それが私の手元にはありません。「ライブラリー」と称されているのは愛される本も、ここに置いてみたいと私が話したからなのですが、絵を展示するべきところに、本まで並べるのはお祭りになってしまうことに遅まきながら気がつき現在、本を置くのは遠慮しています。

でも、三輪さんの作品を見て、この寡黙な作品の後ろに隠れているであろう、三輪さん自身の物語りがたくさんあふれているはずだと思うのです。
その物語りには妄想とも執れそうな、想像の作り出す豊かな話しの数々がこめられていると思いました。
そう思うと、私はあの「サビーヌの不思議な文通」という3部作の絵本のような妄想に恋い焦がれ現実と妄想のあいだを逃げ惑う男が作りだしたサビーヌからの手紙の数々と、どこか通じるような気がしてしまうのです。
それも拡大幻想かもしれません。


妄想という想像の作り出す果てしない連動が可視化する具体そのものが作品であるとすれば、私は妄想に遊び続けることが使命であるとすら思うのです。

三輪さんの作品からそれてしまいました。
自分の作品について語ることもできない私がひとのものについて、話すことなどおよそお門違いだと充分に分かっているのです。しかし、足りない言葉であっても、自分のも、ひとのものも、語る努力は必然だと思います。その言葉が見苦しいとしても、間違いだらけであったとしても、賽を投げなければなりません。

妄想ということを考えます。あらぬことをあるかのように思い描き、現実からどんどん遠ざかってしまうことのように考えられます。私はそれが実に愉しくて仕方がありません。

自分が受け取れるかもしれない、感覚の全てを全身で受け止めたいと思います。それが、お門違いの連続になれば単純な誇大妄想ということになるのでしょう。その一歩手前までぎりぎりのところを歩き回り、めくるめく妄想の世界は歓びのマックスに近づくような気がしています。

三輪さんの寡黙な作品から私がどのくらい妄想を膨らませることができるか。寡黙に対する冒涜にならないように私なりの想像の放浪をしたいと思います。

実際に三輪さんが作品と向き合っている姿も、どう考えているかについても詳しい話しをしたわけでもありません。ただ一度、ーー作品を前にして、自分を無にして画面から語り掛けられることに従っているーーというようなことを聞きました。

私の場合は逆に目一杯自分をさらけ出ししまうたちなので、この言葉にはとても衝撃を受けました。
三輪さんのモノクロームの絵画、滲んでいたり、かすれてい続けることの繰り返しが、じわりじわりと三輪さんの内側に言葉として、あるいはイメージとして現れ続けているのでしょうか。
全ての芸術は音楽の状態に憧れるといいます。
それは、音楽という感覚がその瞬間に無条件で体の中に入ってくるそういう状態ではないでしょうか。
具体的なイメージはその後、思考されることであり、先ず「音」であることではないでしょうか。
そのように、三輪さんが画面に向き合っている時、筆の先から滲み出る色の変化が、無に近い状態になった自分の体に「音」のように入ってくる。
その「音」がまたさらに、筆を活性する。

そんなことは、ものを生み出す時の当たり前な変動でしかありません。
その変動を、自分がどう受け止めるか。
芸術家は逡巡の中で、確かな答えを受け止めようと目と耳を研ぎ澄ましているはずです。

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