昨日久しぶりに盛岡へ。
土で作った動物と人、ということで、どういうものなんだろうと思いながら入ってんだけど、驚愕。
命の捉え方が今にもこちらへ向かってくるのではないかと恐怖を覚えるくらいその眼差しの鋭さに震えました。外国人の利己的欲望が全肉体をかけて立ち向かった時、猛獣に化するのは己なんだ。リアリティを追求すためのテクニックなんか目にも入らない、ひたすら命に立ち向かう姿は自分の命なんだと思うくらい恐怖を覚えました。
最後の部屋には奈良美智の粘土作品が並んでいたけど、ベス・カヴァナーの後に見るもんじゃないと思った。単なる情緒的で散漫な作品にいたく失望の巻でした。
その前に、インプレクサスで鎌田紀子・浅倉伸展を見てきたんですけど、比較するようなことではありません。
ベス・カヴァナがいくら生命本来剥き出しの存在だとしても、絶対的存命しか私たちが受け入れなくてはならないはずもありません。
のんちゃんの表現する命は二重三重にベールをかけて、その隙間から漏れてみるこちら側の密かな不安を何気なく、しかもぺろっとあけすけに見せてしまうんだから、見ているこちら側も持っているかもしれない異常さを、あたりまえでしょ、どうお?って尋ねられているような気になってしまいます。
こういう様々な表現を目の当たりにして「多様な表現」などと済ました顔で口にしたら、お前ばかじゃない?と自問せざるを得なくなるよね。
浅倉くんの表現に対する変化球の欲求にも、大きな樽のたがをバラしちゃって、それをまた戻そうなんても微塵も考えない。どんどんタガを外しまくって、その外し方の多彩なことに驚くばかりです。
奈良美智は不幸にも並べる相手が違っちゃった。
インプレクサスの二人はまったく土俵が違うんだもの、こちら側の世界では情緒の作り方が日本人で良かったと、一息つける安心感と絶対的命との不安感ごちゃ混ぜの日本でした。
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