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ようやく、ウエブサイトを出すことができるようになりました。WordPressの教則本を何冊買ったことかわからないくらいです。何年前から取り組み始めたかも記憶が曖昧なくらいです。しかし、まだたったの2ページだけですが何とか「まちてくギャラリー」の概要が見えるようにはなったと思います。これから「過去の展示」や作ってきた小冊子のPDFなども閲覧ダウンロードできるようにしてゆきます。

個展コテン

今まで個展は何度やってきたか分かんない。ちゃんと記録もつけてないし、記録するべきことでもないと思ってしまう。
でも、なんかに経歴として示そうと思うと困っちゃう。困ったとしてもそん時だけだから、あんまり事務的になりたくないオレとしてはそれでいいことにする。

で、来年石神の丘美術館で個展することになった。
おととし、岩手県立美術館で特集展示と称して2階の一番大きい部屋で展示をしたんだけど、やっぱり欲が出てしまって、新作に至るまでの道筋も示したいよな。そう思うとあれもこれもとなってしまう。
結果、それなりに形にはなったけれど、やっぱちょっと後悔も残る。
何がって、そりゃあ自分がつくってきたものの流れはある程度一貫していると自分では思っている。
でもそれを、どれくらいの人がくみ取って見てくれたんだろうと思うと、少々心もとない感じがするんだ。
岩手県美では古い時期の作品から、割と近いものまで買ってくれていくつか所蔵されているので、それも出さなければと思っちゃう。結果、自分の作品の経過が紆余曲折あって、曲がり道くねくね。
そんな曲がり道を見る人に辿れるか。そりゃ、そう見てくる人もあるだろうけど、散漫な陳列になってしまったような反省があるのです。

で来年の個展では全部新作でいこうとおもったんです。
画廊での個展はしないで置こうとも思ったんですが、、、12月13日(土)から1ヶ月余り土沢の「いちびっと」でもやることにしました。なんで?「いちびっと」は小さいスペースだし、本来の画廊でもないけど、肩ひじ張らないで、気楽に見てもらえることが大事だと思う。
美術館や企画の画廊では、やっぱり「作品の発表」と思ってしまう。これまでの自分が、それこそ辿ってきた紆余曲折を取りまとめて、自分の新しい考えを新しいカタチで示さなければという、義務のようなものを考えざるを得ないし、それが緊張を生む事にもなる。
それがいちびっとのような場所での展示になると、緊張もほぐれるかわりに作品そのものも今までの延長という安易さにも繋がってしまう気がする。その通りなんだけど、緊張だけが本来ではない。ゆったりと展示をすることが、本来の自分の感覚を解き放つ事にも繋がるから、それも大事なことです。

上の写真は去年の仙台アンデパンダン。ターナラウンドでの若い人たちに混ざって少し前の作品を出しました。仙台では始めての展示になるので、それこそ自分の順番をさかのぼって出さなければと思ったのです。
しかし、若い人たちの作品は必死なんだ。表現をすることに飢えている。実にどん欲です。
表現さえすればいいというものではなく、表現のための考える順番というものがあると思うんですが、そういう考察が見当たらないというか、現在の表現で精いっぱい。精いっぱいやって現在をストレートにぶちまけてる。それがエネルギーだし、悶々と悩むところでもあるし、それが目一杯溢れていると思いました。やっぱ、若いってすごいことだ。

これはどこだったかな、ターナラウンドでの展示だったと思うけど、「鈴木昭一郎」という人の「Please tell me」という作品。全く初めて見る作品だし、人のことも知りません。でも表現したいことは素直に前に出ていると思いました。背後に水平線があって、そこへ繋がる道の上でたたずむ少年がまっすぐこっちを見ているけれど、その目はうつろだ。自分がもちろん定まりはしない。でも空には雲が浮かび、両脇の草原には不明な異物が見える。抱えているのはなんだろう。鉢植えの植物だろうか。それらのものが少年の、作者の未来を暗示しているかのように感じる。

芸術というのは暗喩だと私はずっとそう思っている。作品が物語るのは、状況の向こう側に透けて見える別のもののはずだと思う。
この絵のまなざしが語るのではなくて、そのまなざしの裏に見える作者の感覚が紆余曲折を経て滲むのだと思う。

若い人なのか知らないけれど、表現というのは欲望だと思う。その欲の強さがメタファーだ。

自分の個展のことから外れて、人の作品のことを書いてしまいました。
自分が表現しようとすると、先ず自信がどこかへ消えてしまう。不安でしかなくなる。
怖くさえなる。それは自信のなさからだけではなく、表現への欲望が希薄なせいだ。どん欲であることが表現だ。表現の最大の現場である個展でコテンパだ。

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