もりおか啄木・賢治青春館で4月11日までの開催で長谷川さんの展覧会があります。
先週の土曜日、2月27日にもう一度見てきました。かつて銀行だったこの建物の入り口となる階段と扉を模した、「二十億光年の扉」ということなのでしょう。モノクロームの冬山のイメージが扉の向こう、彼岸と此岸を区切って、凍てつく冬の山が寒そうに垣間見えています。
そして、3段ほど階段を上がり、観音開きのドアーを押すと長谷川ワールドの「白」に自分も浸かることになります。
まちてくギャラリーの5回目、2014年5月、6月に長谷川さんから写真を提供してもらい土沢に展示をしたことがあります。その中に、冬の盛岡の夜の街角に除雪した雪の山を写したものが何枚かありました。積み重ねられ、街灯の明かりにコントラストの強い白黒のとげとげしい雪の起伏がどこかの厳しい冬を思わせるものでした。
長谷川さんのものの作り方には、我々のように彫刻をくりかえしてきたような、作ることでリアリティを再現しようとする、物質感に捕らわれた感覚が全く存在していないことに気がつきます。それは絵画という世界そのものが、2次元にイリュージョンを構築する精神的な世界なんだということを改めて思い知ることになりました。
彫刻家たちは、もちろんそんなことに捕らわれない人も多くいますが、たいていがものに拘らざるを得ない、回路に閉ざされがちです。それはそれで、作るということの、ひとつの表出として厳然とあり続けるのですが。
一方で、ものと思考をごちゃまぜにしてしまう性癖から抜け出せないところもあります。それは、3次元のものを3次元に移し替える彫刻という作業の性格でもあり、肉体的な作業によるものではないでしょうか。
絵描きたちは、密室で筆を持ち2次元のイリュージョンと闘う人たちだと思います。
だから、長谷川さんのこれらのものの作り方はいくら、立体的な構築に頼っていても、ここにある構築物はすべてイリュージョンなんだと思いました。長谷川さん自身、そのことは百も承知の上で自身の「身体的な構築」にひたすら向かっているだけなのではないでしょうか。
だから、これらのものは一過性で自身が確認をしたら用済みで、体にしみ込んだ制作の記憶が次に向かうだけなんだろうな。そんなことを想像しながら田瀬の山へ帰ってきました。
二十億光年の扉 谷間のカモシカ 4輪駆動のバス 頂のカモシカ
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